自分に必要なものが、自然に巡ること。
※本シリーズでは、上記の定義を元につながっていきます。
ゴミ拾いで運がよくなる、
という話もわりと聞く
「ゴミ拾いをすると運がよくなる」
これも、わりと聞いたことがある話だと思う。
いわゆる徳を積む、みたいな文脈で語られることもあるし、
小さな善行が巡りを変える、みたいな言い方もされやすい。
たしかに、
道ばたのゴミを見て見ぬふりせず拾う、という行為には、
なんとなく“良いことをしている感じ”がある。
でも一方で、
こうも思うわけだ。
いや、それで何が変わるん?
と。
誰かに褒められるとも限らない。
お金が増えるわけでもない。
成果が見えるわけでもない。
むしろ、
なんで自分がやらなあかんの?
と思うことすらあるかもしれない。
この疑問はかなり自然だと思う。
むしろ、一回ちゃんと引っかかったほうがいい。
道ばたのゴミをひとつ拾った瞬間に、
人生が好転し始める……
みたいな話なら、
さすがにちょっと雑すぎる。
じゃあゴミ拾いは、
ただの自己満足なのか。
それとも、何か別の意味があるのか。
今回はそこを、
あり得ないくらい真面目に考えてみたい。
ひとつ拾っただけで
人生が好転するわけじゃない
先に言ってしまうと、
ゴミをひとつ拾っただけで人生が好転する、
という言い方は強すぎると思う。
道ばたの空き缶を拾った翌日に、
仕事も人間関係も一気に好転する、
なんてことは、そうそう無い。
もし何か変化があるとしても、
それはゴミ拾いだけの効果というより、
他にもいろいろ重なっていたはずだ。
だから、
「ゴミ拾いをすると運がよくなる」
という言葉だけをそのまま受け取ると、
少しズレる。
でも逆に、
「そんなの意味ない」で終わらせるのも早い気がする。
行為そのものに即効性の見返りがないからといって、
そこに何も表れていないとは限らない。
むしろ大事なのは、
その行為によって何が起きるかより、
その行為が何を表しているか、
なのかもしれない。
見て見ぬふりもできる場面で、
自分が何を選ぶのか。
誰にも言われていないのに、
そこにどう応答するのか。
ゴミ拾いの話は、
たぶんそのへんに触れている。
それでもゴミ拾いが
「無関係」とは言い切れない理由
ゴミ拾いが無関係とは言い切れないのは、
それがすごく小さな選択だからだ。
しかも、
誰にでもできる。
やらなくても困らない。
見なかったことにもできる。
つまりゴミ拾いは、
ものすごく些細なのに、
その人の感覚や癖が出やすい行為なんだよね。
目の前に違和感がある時、
それを放置するのか。
少しだけ手を伸ばすのか。
その差は小さい。
でも、こういう小さな差って、
暮らし全体にも案外出やすい。
なんとなく気になるけど後回し。
ちょっと乱れてるけど見ないふり。
本当は引っかかってるけど、まあいいかで流す。
そういう反応の積み重ねは、
空間だけじゃなく、
思考や人間関係や日常の選び方にも
じわじわ染み出していく。
ゴミ拾いって、
単に街をキレイにする行為というより、
違和感への応答の仕方が出る行為でもある。
だからこそ、
無関係とは言い切れないんだと思う。
ゴミ拾いは、空間との
関わり方が出る行為でもある
ゴミ拾いの面白いところは、
それが空間との関わり方をそのまま映しやすいことだ。
自分の家の中なら片づける。
自分の部屋なら整える。
それはわりと自然にできる。
でも道ばたや共有スペースになると、
急に「自分には関係ない」に変わることがある。
もちろん、
全部を背負う必要はない。
世の中のゴミを一人でどうにかしろ、という話でもない。
ただ、
目の前にある小さな乱れに対して、
自分がどういう距離感を取るかは出る。
関係ないから放置するのか。
気づいたぶんだけ応答するのか。
そこには、
空間を“自分とは無関係な背景”として見る感覚と、
“今ここで接している場”として見る感覚の違いがある。
ゴミ拾いは、
善い人アピールの行為というより、
空間をどう受け取っているかが出る行為なのかもしれない。
そしてこの感覚は、
案外そのまま日常の巡り方にもつながっていく。
自分に関係あるものだけを受け取るのか。
小さな違和感にもちゃんと触れられるのか。
そういう接し方って、
思っている以上に“生き方の質感”を作っている気がする。
「御縁」と「あり方」
にもつながってくる
ここで少し、
SYNCHROOTSの見方につないでみたい。
ゴミ拾いは、
空間との関わり方であると同時に、
「御縁」との関わり方にも少し似ている。
「御縁」というと、
人とのつながりだけを思い浮かべやすいけれど、
実際には、
自分が何とどう接しているか、
どんなものを雑に扱い、
どんなものに応答しているか、
そういうこと全体にも関わっている。
目の前の小さな乱れに応答することは、
世界との接点を少しだけ丁寧に扱うことでもある。
そしてもうひとつ、
ゴミ拾いは「あり方」がかなり出やすい。
誰かが見ているからやる。
褒められそうだからやる。
何か得がありそうだからやる。
そういう段階も、もちろんあると思う。
人間だし、その揺れは自然だ。
でも、
誰も見ていない場面で、
それでも自分がどうするかを選ぶ時、
そこにはかなり生の“あり方”が出る。
見過ごす自分。
応答する自分。
面倒くさがる自分。
それでも少し手を伸ばす自分。
ゴミ拾いは、
外から見れば小さな行為だけど、
内側では意外といろんなものを映している。
だからSYNCHROOTSで見ると、
これは単なる美化活動ではなく、
御縁やあり方の話にもつながってくるんだと思う。
徳を積むためというより
「見過ごさない自分を育てる行為」
結局のところ、
ゴミ拾いをしたからといって
劇的に運が上がる、
とは言い切れない。
でも、
だから意味がないとも思わない。
ゴミ拾いは、
徳を積んで見返りを得るための行為というより、
見過ごさない自分を育てる行為として見るほうが
しっくりくる気がする。
小さな違和感に気づくこと。
見て見ぬふりを続けないこと。
目の前の乱れに、
できる範囲で応答すること。
それは派手な開運ではない。
でも、
感覚を鈍らせないことにはつながる。
そして、
感覚が鈍らないというのは、
自分に必要なものが巡ってきた時に
ちゃんと気づけることにもつながっていく。
巡りというのは、
大きなチャンスだけで動くわけじゃない。
むしろ、
小さな違和感や、
小さな呼びかけにどれだけ応答できるかの積み重ねで、
じわじわ変わっていくこともある。
そう考えると、
ゴミ拾いは運を稼ぐ裏ワザではなく、
自分の感覚とあり方を少しずつ整えていく、
地味だけど効く行為なのかもしれない。
なお、こうした行為は、
理屈で見ている時と、
実際に続けてみた時とで、
見え方が変わることもある。
そのあたりはまた別の記事で、
人間側の体験としても読めるかもしれない。



